春光のヒストリー
幼少期
- 出生
1955(昭和30)年3月20日生まれ
長男(第2子)
出生地:母の実家の田川
長女(第1子)は日南子 12月生まれ
1. 幼児期
住んでいたのは、三宅校区の南大橋と呼ばれる地域だった。
県営住宅という2Kで暮らしていた。
4人+父の母という5人で住んでいた。
1Kをカーテンで区切って、身を寄せ合うようにして暮らしていた。
3歳より5歳まで清星幼稚園に通った。
キリスト教の幼稚園だった。
https://seisei-youchien.com/about
我が家から畑を通って15分ほどの距離だったような….???
緑色が基本カラーだったと思う。
母がボンボンが付いた帽子を作り、それを被って通園するようにさせられたのが嫌だった記憶がある。
2. 小学校
三宅校区の反対側にある三宅小学校に通った。
三宅小学校の入学式で、教室内で転倒し目の下(ほほ)を強打した記憶がある。
おとなしい子だったと思う。
3. 中学校
三宅小学校よりも更に遠く、井尻に近い三宅中学校に通った。
軟式テニス部に所属したが、運動音痴だった。
とても試合に出れるレベルではなかったが、3年の最後の試合に出せてもらった記憶がある。
南義秀くんは、その三宅中学校時代の同級生。南義秀くんのお父さんは鹿児島の旭銀行の福岡支店長という裕福な家庭だった。
中学時代はとても成績が良く、クラスで常にトップだった。
中学2年の時にアポロ宇宙船の月面着陸のテレビ中継を見て理系に進むことを決意した。
県営住宅の壁で軟式テニスの壁打ちをしていた記憶がある。
4. 高校時代
貧しい家庭だったので、私立には行くことができないというので、県立高を目指した。
筑紫丘高等学校に合格した。三宅校区よりも北の高宮校区にあった。歩いて30分以内の距離だったような…
入学時は全学で16番目という好成績だった。
部活として物理部に入学しアマチュア無線を始めた。面白くて、のめり込んだので、成績は急降下した。
小松久芳さんは、高校時代の先輩。
文化祭で初めて徹夜を経験した。また、近所のアマチュア無線仲間と、たむろすことを覚えた。
高校3年生になってから部活を辞めて大学を目指すことになった。
貧しい家庭だったので、私立には行くことができないというので、国立大学を目指した。
5. 大学時代
何とか頑張って九州大学工学部の冶金学科に合格した。
第1志望は電気系だったが第2志望の冶金学科に回された。
浪人するほどではないと判断し冶金学科に通うことにした。
物理研究部という部活に入った。
六本松の部室長屋で物理研究部に入部しようと尋ねたら部員がマージャンをしていたのを覚えている。
物理研究部では夏の合宿としてフィールドデイコンテストに参加した。
壱岐、万年山など、楽しい思い出であった。
部活のメンバーが、平田正義くんや森山聡之くんや藤村直美さん である。
万年山では、この3名と一緒に登ったが頂上の水場が枯れていて水たまりの溜った水をティッシュで濾してから飲み水とした記憶がある。
冶金学科では成績がトップだったが、電気系を学びたいという思いが強く、
物理研究部の顧問をしていた通信の青木教授に相談したところ学士入学という制度を使えば、電気系に入学できると。
そこで半年間、青木教授の研究室の研究生になり、秋に電気系に学士入学した。
電気系在籍中に大型コンピュータの実習があり、コンピュータに魅せられた。
大型コンピュータの実習を管理していた教育センター?の宇津宮先生が目をかけてくれた。
青木先生には悪かったが、4年生時の研究室選びでは、情報系を選ぶことにした。
情報系とは言ってもハード、ソフト、応用など色々あったが人工知能に可能性を感じたので、田町常夫教授の研究室を選んだ。
6. 九大の研究室時代
田町常夫教授はお忙しいので、実質的には河口英二助教授に色々と指導を受けた。
田町+河口研究室は春日キャンパスにあった。
皆、修士課程に進学する時代であったので、修士課程に進むことにした。
貧しかったので、奨学金を受けた。
その研究室時代の1学年後輩が谷口倫一郎くんである。
福岡大学の吉村賢治先生も1学年後輩である。
研究することが好きだったので、博士後期課程に進学することにした。
先の就職のことなど全く考えていなかった。
博士後期課程を終えた1年あとに田町常夫教授が退官になることが判明した。
ボスが退官になると研究室メンバーが解体になるという噂が飛び交った。
その時、宇津宮先生が
「西南学院大学が教員を探しているので行かないか?今のままではどこに出されるか分からないよ。」
と言ってくださった。
コンピュータの応用という観点で文系も。あるかもしれない。
地元の福岡に居ることができるだけでもありがたいと判断し、応募することにした。
7. 西南学院大学時代
商学部に講師で採用された。
両親や祖先
1. 父方
父:吉武功(いさお)
大正7年8月12日生まれ
死亡:平成15年12月3日午前10時31分 福岡市南区の九州中央病院にて
功の父:吉武延三郎
功の母:吉武小延
朝鮮の京城(現ソウル)で生まれ暮らしていた。
吉武小延は吉武延三郎の後妻。吉武延三郎の先妻は「吉武なお」。
吉武延三郎と「吉武なお」との子が長男の吉武胖(ゆたか)。
吉武胖の子は吉武紀道。吉武春光の従兄弟にあたる。Tel. 090-9655-9747 092-926-0698
長男は九大医学部卒の医師だったが、戦死した。
3男は幼少時に死んだそうだ。
共に遺影が大宰府の仏壇に飾ってある。
吉武功は二男として生まれ、朝鮮銀行に勤務していたそうだ。
一時期、兵役についていたそうだ。
終戦に伴い、功の両親を連れて引き揚げてきたそうだ。
福岡の福浜にある伊崎港に上陸したそうだ。
福岡市片粕にあった福岡県工業試験場で水の分析に従事。
祖先は 山中鹿之助(尼子氏の部将)に関係した落ち武者、だったとか。
宗像市の神湊に吉武姓が多い。
神湊の魚屋旅館が親族。
吉武崎二郎、しな
子:吉武延三郎、吉武春太郎…
吉武春太郎
子:謹一、亥の助
吉武謹一、しげ子
子:精
吉武亥の助、とみ子
子:金一、邦彦
お寺は「いんせん寺」隣船寺?? 926-0698
2. 母方
母:吉武勝代(かつよ)
大正11年8月20日生まれ
死亡:平成22年3月2日午前9時8分 筑紫野市の病院にて
勝代の父:津川吉種
勝代の母:津川ハル
田川市後藤寺で長女として生まれた。
二男(弟)は津川敏明。
津川吉種は市会議員に出馬したこともあるそうだ。一晩で投票者が寝返ることを経験したそうだ。
田川市の真ん中に位置する後藤寺駅の傍(たぶん北側)、に住んでいたようだ。
幼少期の記憶としては、部屋の障子付き丸窓から眺めた、川の上の鉄橋に止まっている列車が思い出される。
きっと暗い中で怖かったんだと思う (;;
後藤寺から夏吉に引っ越した。
私は裕福な家庭ではなかったので、小学校時代の最大の楽しみは田川の祖父母宅に遊びに行くことであった。
夏吉で夏に虫を取ったりした思い出が残っている。
津川敏明の奥さんは津川孝子。その子は、津川紀子と津川正志。
津川紀子は結婚していたが旦那さんが病気で死去。
今は、津川正志と一緒に上野焼で有名な福岡県福智町に住んでいる。
津川正志は結婚していない。